【うつ病】どんな人にも存在する意義ってあると思うんだよな
本日、空が薄暗い。
低気圧が来ているようだ。
昔、雨は好きだったが最近はそうでもない。特に冬の冷たい雨は苦手だ。体温が下がると、気持ちまでブルーになってしまうのだ。
やだわ、私ったら。早く温かいものでも飲んで落ち着きましょう。
そんな暗い空の下、雰囲気どよめくオフィスから、今日も暗めな内容をお届けしたい。
【目次】
うつ病患者が自分を責める必要などまったくもってない
常々、このブログで私がうつ病であった経験を発信している。
現在も完治しているわけではなく、天候や体調によってはうつ病が「ん?お呼びかね?」と顔を出す始末である。
というか、うつ病の完治など、ほぼないようなものではないだろうか。
そんな私の周囲には、少し気持ちが沈んでいる方が多く集まる。
類は友を呼ぶというか、なんというか。
私はどちらかというと『ネットコミュ障』(私が作った造語。ネット上でのコミュニケーションが異常に下手な状態にある例え)なので、ネット上の知り合いは非常に少なく、主に現実での友人に多い傾向だ。
そんな彼らに私から言えることは「どうか、自分を責めないで」ということである。
非経験者の言う感想に耳を傾ける必要などない
世の中にはうつ病というものを正しく理解せず「どうせ根性が足りないんだろ?」という言葉を平気で投げかけてくる人もいる。
仕方がない。彼らはうつ病になったことがないのだから、理解できないのは仕方がない。
しかし、逆に考えれば、経験をしてもいない人間の言葉など聞き入れる必要はないのだ。
うつ病であるあなた自身がやるべきは、そういった無責任な言葉をシャットアウトし「自分がここにいても問題ないのだ」という居場所を認知することである。
私の周囲には、少数であるがうつ病を理解しない人がいた。
それは職場の人であったり、肉親であったり、親戚であったり。
特に都会というわけでもないので「精神科に通っているなんて……あそこのお子さんは……」なんて噂されたこともある。
しかし、経験したことがないことを理解しようとせずに自分の感想だけを述べる人間の言葉を、どうして信用する必要があるのだろうか。
経験者であるならば、寄り添うことこそが存在する意義である
経験は知識に似ている。
知識とは窓である。
窓は大きければ大きいほど綺麗な景色を眺めることができる。
逆に、見えなくてもよいものまで見えてしまう。
知識も同じで、知れば知るほど、理解できることは増える。
しかし、同時に知らなければよかったことまで考えなければならなくなる。
そして経験も同じだ。
経験すれば窓は強引に拡張され、嫌な経験も増えるだろう。
だが、逆に考えてほしい。
そうして見えた景色は悪い景色であると同時に、紛れもない現実なのだ。
それから目を背けることも一つだが、しっかりと見据え、他者がそういった景色を見た場合に寄り添うことが、あなたにはできるはずだ。
うつ病という経験は、あなたの宝である。
経験した人にしかわからないが故に、同じ経験をする人に寄り添うことができる。
そして、それがうつ病患者が生きる意味ではないか。
私は最近、そう考えている。
少しでも自分の見てしまった現実を伝えるために、こうしてブログを書いている次第だ。