【仕事】仕事が主軸な生き方は、生憎取り扱っておりません
なんてこった。社内ニートを名乗る私が、仕事に振り回されているとは。
私のブログは午前中に会議がない日にこっそり更新をしているのだが、最近は午前中に会議をどんどんつめこまれていたので、午後に更新をする日もあった。
しかし、そんな私を無視するかのように午後も会議を入れられた。これではブログを書けないではないか!と思う反面、ブログは社内ニート時の精神安定剤だったので、それを脱せそうな雰囲気は素直に喜ぶべきなのだろう。
ただ、仕事が忙しいのが好きなわけではない。
社内ニートを喜ぶわけではないけど、可能ならできる限り労力少なく成果を得たいのが私である。
【目次】
身を粉にして働くのは命の前借だから
私は生きている。
仕事をするために生きているのではなく、生きるための手段として仕事をしているだけである。
世の中には、仕事に生きがいを感じ、生き様=仕事という人種もいるようだが、私はそうではない。
生きることにある程度楽しみは見いだせるが、仕事にはなにも楽しみを見いだせないのだ。
そのため職場で交友関係を密に築こうとか思わないし、できるだけルーチンワークは効率化したい。
可能であればドキュメント作成もパターンにはめてしまって効率を上げたいし、残業はしたくないし。定時で帰りたい。
20代前半、新卒のころは身を粉にして働くことが当たり前だと思っていた。
しかし、うつ病からの休職、退職、転職を繰り返し、身を粉にすることは命の前借だとしった。
当時、薬のように飲んでいたコーヒーのおかげか、現在ではカフェインが割と本気で苦手になってしまっている。大好きだった紅茶も牛乳で薄めなければ動機がするようになってしまった。
もし、あの時、レッドブルのような飲み物に手を出していたら。はて、私の体はどのようになっていたのだろう。
命の前借をするのは自分の選択だ。それは個々に選択権がある。
太く短く生きたい人であれば、そういった前借をして猛々しく燃え盛るのも一興であろう。
しかし、そうではない生き方ができる時代なのではないか。
日が昇るとともに起きて、日が沈むとともに湯船につかりたい
諸事情があり朝の5時に起きているが、できることなら日の出までは寝ていたい。
そして可能であれば日の入り時には家で湯船につかっていたいのだ。
人生に尺度はない。その豊かさはどのように計るか決まってはいない。
しかし、逆にいえば豊かさは誰かに定義されるものではなく、自分が定義すべきことなのだ。
であれば、私にとっての人生の豊かさはなんであろう。
無理せず、家事をおこなえる時間と、仕事の時間と、趣味の時間。これらの時間を相混ぜても反発せずに、健康的な時間にすっぽりと収まる生活。これが、私の理想である。
世の中には「誰かの役に立たねば!」と息巻いている人がいるが、私の価値観はそうではない。
誰かの役に立ち、万人に好かれ、賞賛される人生はさぞ心地よいだろうが、そうならなくても心地よくなる方法を私は知っている。
木々に囲まれ、風の吹く音と葉が揺れる音を確かめながら四季を感じる。
それこそが自分の生きたい人生なのだ。
なので「社内ニートだろうとなんだろうと金さえもらえればいい」という精神で生活している
そう、私の生きるための活動の主軸は仕事ではない。
仕事は金を得るための手段であって、それがすべてではないのだ。
なので最近は「社内ニートだろうとなんだろうと金さえもらえればいい」という精神で生活をしている。
そう考えた途端、社内ニート生活が少しだけ楽なものに思えるのだ。
とはいえ、現在はドキュメント製作が多く、社内ニートとはいえないのだが。
まあ、そんなもんさね。人生は波がある。体に力が入ったら沈んでしまうのだから、体の力を抜いて楽に生きていこう。