【うつ病】自分の経験を、他者に『優しさ』として与えられるのは『甘え』か
この間「集客できていないブログはこういった書き方ができていない。内容を見直してみた方がいい!」というツイートを見つけたので読んだ。
その中に、一つおもしろいのがあって、
『ブログ記事の最初はポジティブに記載すること』
だった。
……なんか、ごめんね?このブログ暗くて?
そんな魔王でも出てくるのかな?ってくらい暗雲が立ち込めているブログが、今日もうつ病という重いテーマを扱っていくぞ!
ほら!冒頭の文だ!元気出せ!
【目次】
友人がうつ病になりまして
大学時代に知り合った友人は、とても可憐な女性だった。
可憐、というのがしっくりくる女性が世の中にどれほどいるだろう!と言いたくなるように儚げで、かわいらしい女性だった。
彼女を代わりにAとする。
Aさんは現実で出会っているときこそ普通で、たまに傷つく言葉を吐いてくるものの、いたって普通の女性だった。
冗談だって笑ってくれたし、一緒にいても苦にならなかった。
そんな彼女も、私と同時に社会人となり、気が付けば2年も経っていた。
そして彼女はうつ病になった。私とほぼ同時期に会社を辞め、地元に帰ってきたのもほぼ同時だった。
「うつ病だから」という理由で心の許容量を拡大していた私
うつ病になったのはほぼ同時でも、治ったのは私の方が早かった。
当時の私は「うつ病になった経験は自分の中の財産。これでうつ病の人間により優しくなれる」と思っていたし、もちろん今でも思っている。
彼女はしきりに友人と遊びたがった。私が「キャンプにいく!」とツイートすれば即座に「私もいきたい!」と返信してくれた。
町に出て遊ぶこともあったし、遊んでいても何にも問題がなかった。
ただ、そう思っていたのは私だけのようだ。
ある友人、仮にBとするが、BさんはAさんを家に招いたことを思い出しながら、彼女の異常性を語り始めた。
聴けば、Bさんがかっているフェレットを「くさい」と言って消臭剤をばらまいたり、部屋が「きたない」と言って勝手にコロコロをかけたり。
だが、そんな状態について私は「うつ病の治療中は自分のこと以外考えるのが難しい。そういう状態も受け入れるのが友人なんじゃないの?」とBさんに告げた。
それはBさん自身もうつ病でそうだった時期があり、その時も私は同じように接していたからだ。
しかし、Bさんはまっすぐに私へ言った。
「甘やかすな!」
『うつ病だから』という免罪符は使ってもよいのか?
さて、上述した内容をみなさんはどう思われるだろうか?
私はひとえに『うつ病だから』という免罪符を利用してもいいのかどうか、という問題にぶち当たっている話だと思う。
そもそも、障害にせよ、病気にせよ、それを持って生まれようが、後天的に得てしまおうが普通に生きる権利は存在する。
甘えるな、という言葉はもっともかもしれない。しかし、今回の場合『うつ病だから』という免罪符を使用したのはうつ病が完治している私であり、うつ病を患っているAさんではない。
もしAさんが「うつ病だから勘弁してほしい」と言ったのであれば「甘えるな!」といったBさんの気持ちもわかる。
だが、果たしてうつ病の当事者でない人が『うつ病だから』という免罪符を使うのは甘えなのだろうか?
差別と区別
差別と区別は別物である。
差別は「『うつ病だから』一緒に遊ばない」であるとか「『うつ病だから』この人は嫌いだ」みたいなことである。
対して区別とは「『うつ病だから』この人にもできそうな作業をふろう」とか「『うつ病だから』静かな場所に連れて行ってあげよう」ということである。
この両者は似ているようで全然真逆だ。
差別はネガティブな方向に働かせ、区別はポジティブな方向に働かせている。
もちろん、Bさんの気持ちをないがしろにするつもりはない。Bさんには「それは災難だったね」とこえをかけているし「しばらくはAさんと距離を置いた方がいいかもしれない」という話もした。
しかし、果たして私が行った『うつ病だから心の許容範囲を広げる』というのは、間違っていたのだろうか。
答えが出ることなんてないのだろう。
そう思い続け、ぐるぐるしている間に、AさんとBさんが絶縁状態になった。AさんはBさんと私を一括りに扱っていたのか私と連絡を取らなくなった。
それでよかったのかはわからない。
しかし今でも、この『うつ病だから』の免罪符をどう扱うべきか悩んでいる。
優しさとは難しい。
自分がした苦労を、他人にやさしさとして返せる人間は稀有だ。
私はまだ悩んでいる。