【その他】自己肯定感をそぎ落とすいじめは暴力だ
日々、こうして文字を書き綴れるのは楽しいことだ。
小学生のころから読書が好きで、活字という活字を読みつくし、視力は地に落ち、現在でも免許更新時に「裸眼で視力はいくら?」と聞かれた場合は「前に測定不能と言われました」と答えている私であるが、活字は受信と同時に作成も大好きなのである。
そんな私がこうして文章を書きながら、他の人の人生を切り取ったブログという書物を通して、最近思ったことがあるので、それを素直に書いていきたい。
いや、ホント、文字書くの楽しいわ。
【目次】
- 脈略ないけど、自己肯定感は大事な話
- 我おもう、ゆえに我あり、だから我おもわなかったら、我はいない
- そして、中二病とかじゃなくて、本当に何も感じなくなったのだ
- 自分が肯定するには、まず他人に肯定してもらえないと駄目である
脈略ないけど、自己肯定感は大事な話
本を読むのが楽しくて仕方がなかった小学生時代を経て、私は教養を身に着けた。
元々、幼いころから大人に交じって習い事をしていたせいで、どこか精神年齢が大人びていた私が、知識を身に着けたことにより、どうなるか。
いわゆる、一般の子供たちからのいじめがはじまった。
子供とは恐ろしいもので、自分とはどこか違うものを肌で感じ取り、遠ざける。遠ざけるだけならまだよく、たまに相手を蔑んで脅威から身を守るという態度をとる子供もいる。
これが、いじめの原理であると、勝手に解釈している。
悪口、無視……。
身体的に大きかったため物理的に傷つけられたことはないが、彼、彼女らはそれを楽しそうにやるのだ。
大人になった現在であれば、それが一種の麻痺であることは理解できる。しかし、そうしたいじめを受けた私の中から、大きくかけたものがある。
それが『自己肯定感』だ。
我おもう、ゆえに我あり、だから我おもわなかったら、我はいない
学校というコミュニティで周囲から「お前はいらない人間だ」と言われた私は、それが正しいと認識するようになった。
資本主義の大原則は多数決だが、それに近いものがある。
コミュニティの大半が「こいつはいらない」と判断し、いらないなりに扱えば、そのコミュニティではその人間の価値は堕落する。
そしてずるずると引き下ろされ、ついには感覚までも麻痺し「私はいらない人間なのだ」と認識するようになってしまう。
中学生のころから、私は自己とは何か、と考えるようになった。
「われ思う、ゆえにわれあり」などと偉い人はいうが、要するに私は「自分が自分を認識する」ということが自己の確立であると考える。そして周囲から「いらない」という価値観を押しつかれられた私はついに「自分はいらない」という価値観を内包することに成功した。
先ほども述べたが「自分が自分を認識する」ことで自己を保つ。
その自分が「自分はいらない」という価値観を内包するとどうなるか。
アイデンティティの崩壊である。
そして、中二病とかじゃなくて、本当に何も感じなくなったのだ
高校生の頃の記憶が、私には乏しい。
正確には『楽しい記憶』が、であるが。
放送部に入部したことは覚えている。
消去法で部長になったことも、部室でオセロをしたことも、教師に隠れてPSPでMH2Gをみんなでやったことも、先輩と架空のバンドを作り上げたことも、薄らぼんやり覚えている。
しかし、逆にいえば、それくらいしか記憶にない。
運動神経がずば抜けて悪い私は、体育になるなり直接的に罵倒された。
教師からは落ちこぼれの烙印を押され、『勉強もできないし、周囲の子供と交われない扱いの面倒な生徒』として暴言を吐かれた。
そうしてまた、自分の中に『自分がいらない理由』を貯めていくことに成功する。
気付けば私は、何も感じなくなっていた。
いや、感じないのではない。考えられなくなっていたのだ。
誰かから言われた言葉が、楽しい言葉なのか、悲しい言葉なのか、怒るべき言葉なのか。そんなことは考えない。
何故か。いらない自分には必要ないからだ。
もし、当時の私が目の前にいたら、相当不気味だと思う。
笑いもしない。泣きもしない。ただ、本を読んで、ご飯を食べて、糞して寝る。
生きているというよりは、存在しているに等しい。
そんな人間が、果たして生きていると言えようか。
自分が肯定するには、まず他人に肯定してもらえないと駄目である
そんな私が、今こうしてブログで怒りをぶつけていられるのは『自己肯定感』が回復した部分が非常に大きい。
大学生に入り、親友ができた。
社会人になり、尊敬できる先輩ができた。
そんな状態で、数年すごし、私はようやく自分を肯定することができたのだ。
一ヶ月ほど前まで、化粧をするたびに「よし、今日も絶妙なブスだ!」とつぶやいていたが、それもなくなった。
恋人が、自分を肯定してくれるからである。
「ブスじゃない」と自分を受け入れてくれるからだ。
自分が自分を肯定するには、不思議なことに他人の力が不可欠である。
人は誰かに肯定してもらって、初めてこの世の人間になれるのだ。
逆を言えば、言葉という暴力で相手の自己肯定感をはぎ取るいじめのなんと暴虐なことか。
いじめの原理は、自分と違う違和感を原始的に理解し、畏怖から身を守るための自己防衛と前述したが、あれは嘘だ。
紛れもない暴力である。
せめて、自分は誰かをこの世から消さないよう、おごそかに生きたいものだ。