【うつ病】誰かの想像する自分を追いかけていたらうつ病になった話
今でこそ「これも糞、あれも糞、たぶん糞、きっと糞」と歌のように悪態をついている私であるが、一時期、世間からの自分の評価に悩んでいた時期があった。
それは決して評価が低いことに悩んでいたのではない。
むしろ評価が高いことに悩んでいたのだ。
そんなちょっと自慢に聞こえることに悩んでいる人のために、私はこの記事を書いていく。
【目次】
- なんでもできる私 → 評価されまくり
- 評価はどんどん巨大になっていく → 相対的に今の自分が小さく見える
- 周囲が想像する私像と自分が乖離する → うつ病に
- 原因は他人の評価を気にしすぎであるということ
なんでもできる私 → 評価されまくり
別に自慢でもなんでもない。
が、私は大抵のことがよくできるらしい。
周囲から見れば優等生だし、社内ニートを謳歌している現在も会社から「よく頑張っている」と評価されるぐらい、私は見た目で評価される人間のようだ。
悪くはない。しかしよくもない。
社会人になって初めての研修。班を作ってシステムを構築し、周囲をまとめながらプロジェクトを進行していく。
その中でも「やっぱり雑兵Aさんはできるよねぇ」と言われた。
会社に戻ってからも、社員のだれもができなかったシステム追加機能を完成させたし、炎上しているプロジェクトに全力で取り組んだし、まあとにかく私は評価されていた。
一年が終わるころ、周囲の人は「雑兵Aさんがいれば大丈夫」という評価を私にべたべたと貼り付けていった。
まるでメッキのように。
評価はどんどん巨大になっていく → 相対的に今の自分が小さく見える
評価はどんどん巨大化していった。
まるで村にでる怪物のうわさが尾ひれはひれついて大きくなるかのようだ。
その一方で、当の私はというと怯えているしかなかった。
「いつ自分の本当が知れて評価が下がるかわからない」
「本当の自分が世間にばれてしまったら落胆されるのではないか」
そう思いながら、私は必死に誰かが想像する優等生な自分へとなりきることにした。
プログラムができるように努力をした。
分からないことは徹底的に調べ上げて、どんな質問でも返答ができるようにした。
週報には改善点を上げるようにし、自分をどんどん追い込んで行った。
周囲が想像する私像と自分が乖離する → うつ病に
そうして出来上がった自分はものすごく強大な姿になっていた。
見上げることしかできない私は、その姿をふっと思った。
「これは私ではない」
しかし、時はすでに遅かったのか、周囲の評価はどんどん上がっていった。
「あいつがプレゼンをすると分かり易い」
「資料を作成させるならあいつだ」
「次はサーバ構築をさせていこう」
そうやって出来上がった私の虚像に人々は次々と期待した。
期待と同時に、本当の私を見ることなく仕事を押し付けていった。
そしてその虚像と離れていることを自覚した私はどうしたらほかの人からの期待を裏切らないか必死になった。
そして必死になった結果、私の方が壊れてしまったのだ。
原因は他人の評価を気にしすぎであるということ
今回の原因、一言でいうなら私が他人の評価を気にしすぎていたということである。
私は昔から、誰かに褒められることが少なかった。
出来のよい姉がいたために「妹は成績が悪い」とずっと言われ続けてきたのだ。
人間、十代に受けたコンプレックスを一生抱えて生きるというが、私の場合はだれにも認めてもらえなかったことがコンプレックスだったのだろう。
社会人になって認められたことがうれしかったと同時に自分が失敗すればその居場所がなくなることを恐れたに違いない。
しかし、今だから言えることがある。
他人は意外に自分のことを気にしていないということだ。
そもそも、会社の人間なんて退職や転職をしてしまえば赤の他人。ほとんど関わることはない。そんな人間に好かれるようにふるまうこと自体間違いである。
もちろん、好意自体を否定するわけではない。誰かを思い行っている行為自体は問題ないし、むしろ素晴らしいことだ。
しかし、それが過ぎてそこに居場所があると勘違いをし、あまつさえそれが一瞬でなくなってしまうという恐怖に怯えることは無用である。
居場所は、自分自身にあるものだ。他人へ依存するものではない。
すぐには難しいかもしれないが、同じ状況になる人へ言いたい。
すこしずつでも構わない。他人と自分を切り離して考えよう。
私と同じ状況で苦しむ人が少しでも減るように願い、この記事は終了とする。