【その他】年をとってからアニメが見られない
通販はAmazonで行うし、音楽はAmazon musicを使うし、電子書籍はKindleだし、アニメはAmazon primeで見ている。
たぶん、Amazonが倒産したら、私は娯楽をだいぶ失うであろう。
その中でも、取り立ててアニメを定額でみられるシステムはなかなか快適である。地方に住んでいるオタクにとってアニメの供給元は死活問題である。関東へ引っ越したときに「やだ!アニメが深夜にたくさんやってる!」と思った田舎民は私だけではあるまい。しかも、レンタルショップと違い、返却という概念がないのも素晴らしい。
さて、そんなアニメだが、最近、なぜか日常系以外を見なくなった傾向に気が付いた。
今日はすごくどうでもいい自分への考察である。
【目次】
アニメの主人公を応援し、成長していく楽しさ
私が本格的にアニメを見るようになったのはいつごろであろう。
幼少期、なぜか親が「CLAMP作品なら見てもいい」という発言に従い、私は姉と『魔法騎士レイアース』、『カードキャプターさくら』で育った。
その後、友人から『シャーマンキング』『H×H』『NARUTO』などの少年漫画を教えてもらい、そちらへ傾倒するようになるが、とにかくアニメーションを鑑賞するという習慣は幼少期のころから形成されていった。
これらを並べても、そのどれもが『主人公が葛藤し、悩み、成長する物語』であるが、私はこの『主人公の成長』が大好きである。いや、大好きであった。
誰かの心が迷い、傷つき、それでも前に進むストーリーは、いじめを受けて卑屈になりかけていた私の心を立ち上がらせた。
年を重ねるごとに辛くなる『主人公の葛藤』
しかし、年を重ね社会に出ると、なぜかそういうアニメを視聴することにためらいが生じるようになる。理由は簡単。重いのだ。
いままで大好きだったステーキで胃もたれをおこすような感覚。そう、もう心の葛藤も成長も、現実だけで十分なのだ。
大学まではつるむ人間をある程度選ぶことができる。それは同じ趣味を持つものだったり、レベルが一緒だったりするが、社会ではそうはいかない。社会に出れば出るほど、自分がいかに無能であるかを思い知らされ「成長しなければ」という焦りを抱えることになる。
そんな状態の中で主人公の成長を見せられると「こんな少年ですら頑張っているのに私ときたら」と思うのだ。成長しなければいけない現実の私から目を背けてみる娯楽のアニメが、いつしか現実に迫ってくるように感じられるのである。
それでもアニメに逃げた私は『日常系アニメ』に逃げた。
女の子がただ、生活しているだけ。そこにボケとツッコミはあれど、大きな成長はない。当時は『ヤマノススメ』が放送される水曜日にダッシュで家まで帰っていたほどだ。
現実から逃げた癒しを、私は画面の向こうへ求めるようになっていった。
刺客『けものフレンズ』
そしてそのまま『けものフレンズ』が始まった。
開始して4話くらいは頭がトロトロの状態で視聴していた。そして裏切られた。最後の2話での急展開に、私は心を奪われ、最終話の前に至っては「かばんちゃん、どないしたんや!なあ!」と画面を揺らしたい思いに駆られてしまった。
『けものフレンズ』は一見すると女の子が目の前にある簡単な課題を平和的に解決していくだけの物語である。冒険はしており、セルリアンという敵は存在するが、その存在感は希薄だ。たまに出てきて、たまに戦って。そんな気ままな冒険を私は癒される思いで眺めていた。
それがやられた。ラスト2話で暗雲が立ち込め、気が付けばあれよあれよという間に『かばんちゃん』の頑張りを応援している自分がいた。
そういえば、こういう気持ちを、小学生のころに持っていた気がする。そう感じながら。
アニメを見るにも体力はいる
どうしてけものフレンズがあれだけ流行したのか、私にはわからない。
しかし、日常系アニメだとおもって視聴したら思わぬ反撃にあってしまったのは確かである。
この一連の流れから、おそらく私は疲れていたのだろうと予測している。
アニメを視聴するにも体力がいり、現実でのストレスをアニメで発散させようと思った場合、アニメのなかで波風が立つことに耐えられなかったのだ。
私はこの事象をそう解釈している。
ちなみに、現在は『糞アニメ』を求めてさまよっている。
『異世界はスマートフォンとともに』は見たはずが内容を思い出せず、視聴をしていたがあまりにも暇すぎてスマートフォンでまとめ記事を徘徊していたという異例の事象に見舞われた。
もし、上記を超える糞アニメがあればご一報いただきたい。