私は雑兵

社内ニートが自律神経と戦っています。

【その他】自分の異常性に気付くことについて

小学校1年生のころから手話を中学2年生まで習っていた。
当時、ろうあ者の人から直接教えてもらっていたが、彼らは自分のことを「障がい者」と呼んだ。
「自分は耳が聞こえる。しゃべれるし、目も見える。手足だって問題ないけど、こういう場合はなんていうのか」と尋ねると、彼らは「君は健常者と呼ぶ」と教えてくれた。

健常者。健康で異常なしな者。確かに、五体満足という意味では私は健常者なのだ。そう理解していた。

始めてうつ病と呼ばれる症状が出たのは社会人になって三年目になる。床が常にフラフラと揺れ動き、視界は定まらず、発熱した体は言うことを聞かなくなった。歯を食いしばって満員電車に乗り合わせ、拳を握りしめながらキラキラ輝いたOLが歩いているビルを歩いていた。苦しい。でも私は健常者なのだから、これができなければならない、と本気で信じていた。

うつ病が治り、仕事を転職してもまだ、私は正常なる者の呪縛に取りつかれている。私は障がい者に認定されるほどの大病を得ているわけではないのだから、会社もちゃんと行かなければならないし、家事もきちんとこなさなければいけない。

まっすぐ歩いて、背筋伸ばして、前を見て。誰かに自分の病状がばれないように、常に毅然として歩くのだ。それを命令されている。誰からか。私からだ。最近気が付いた。私が健常者なのだからと命令しているのは、全部自分だ。

じゃあ、現実の私はどうだろうか。
背筋は伸ばせない。体が重いのだ。
視線は前を向けない。めまいがするのだ。
毅然となんてできやしない。心が苦しいのだ。
あら、全然、健康じゃないじゃない。こうやって書いていて気付くが、それでも自分には打つ手がない。病院に行っても足蹴にされてしまう。誰かを前にすれば、私は"正常な私"を繕ってしまうからだ。

現実との乖離は自己嫌悪感を生む。実際、私は自己嫌悪の塊である。自分のことが好きではない。暗くて、じめじめしていて、友人に素直になれず、家族をも拒絶してしまう。そんな愛せない、かわいくない私は自分が誰よりも好きではない自分なのだ。何かに怯えて、自分をひた隠しにし、強がってできる人間を装っているのも、もう嫌だと感じる。

現実を見なければいけない。私は異常だ。少なくとも正常ではない。まずは自分の現在地を認識できなければ頂上への道は開けない。登山と一緒。私がすべきことは、この異常な私を受け入れることなのかもしれない。